東京地方裁判所 昭和33年(特わ)367号 判決 1960年2月26日
本籍 鹿児島県囎唹郡志布志町志布志三十番地
住居 東京都江東区深川平久町一丁目三番地(辻本方)
無職 福永嘉三
昭和三年二月十七日生
本籍 和歌山県西牟婁郡すさみ町大字周参見三千七百七十九番地
住居 東京都太田区北千束七百七十番地(向坂方)
会社員 津村悦夫
昭和三年十月六日生
本籍 広島県深安郡神辺町大字川北六百十四番地
住居 東京都江東区北砂町四丁目千十六番地
新聞記者 池田日出郎
大正四年七月九日生
本籍 福島県石城郡勿来町大字窪田字大槻三十六番地
住居 東京都杉並区高円寺七丁目九百七十一番地五明方
無職 大田哲こと 櫛田精男
大正十三年三月二日生
本籍 福岡県八女郡中広川村新代六百八十五番地
住居 東京都世田ヶ谷区経堂町六十三番地堀江方
新聞記者 玉木宏こと 榊利夫
昭和四年二月二十一日生
本籍 大阪市港区市岡元町三丁目十八番地
住居 東京都世田谷区世田谷三丁目二千八十二番地
著述業 原太郎
明治三十七年三月二十五日生
本籍 大阪市東区横堀二丁目五十四番地
住居 東京都文京区指ヶ谷町九十二番地
会社員 浅野雄三
大正元年十二月十七日生
本籍 秋田県北秋田郡比内町扇田字白砂百十六番地
住居 東京都世田ヶ谷区世田ヶ谷二丁目千六十五番地
無職 富田昤二
昭和八年三月十二日生
本籍 東京都目黒区平町百九十八番地
住居 同都新宿区西大久保三丁目六十七番地音楽センター内
無職 今藤多恵子
昭和六年五月二十五日生
本籍 熊本市黒髪町大字坪井六百九十九番地
住居 東京都世田谷区祖師ヶ谷二丁目千百三十九番地
著述業 杉本重臣
明治四十四年三月三十一日生
本籍 東京都台東区御徒町三丁目六十番地
住居 同都世田谷区成城町八百四十五番地
演技者 矢野島広一
昭和元年十二月二十七日生
本籍 茨城県猿島郡中川村大字長谷七百十八番地
住居 東京都品川区東大崎三丁目百九十七番地大崎荘内
事務員 野本重雄
大正十五年三月二十三日生
右の被告人福永嘉三ほか十一名に対する出入国管理令違反各被告事件につき当裁判所は、検察官金吉聡、弁護人池田揮孝、寺本勤、青柳孝夫、田代博之、福島等、出席のうえ口頭弁論を開いて次のとおり判決する。
主文
本件各公訴は、これを棄却する。
理由
(一) 本件各公訴事実の要旨は「被告人等は、いずれも日本人であるが、別紙出国時期一覧表各記載の期間内に、有効な旅券に出国の証印を受けないで本邦内より本邦外の地域におもむく意図をもつて各出国したものである。」というにある。(右の期間は短いものでも一年以上、長いものでは六年以上である。)
本件各公訴事実は、どういう観点からみても、またどれほど考えても、とうてい特定しているとはいえないので、本件各公訴は、不適法としてこれを棄却する。つぎにその理由を述べる。
(二) 公訴事実の特定に対する法の要請
現行刑事訴訟法(以下現行刑訴、刑訴法、または法という。)上公訴を提起するには「起訴状を提出して」することになつており、起訴状には、「被告人の氏名その他被告人を特定するに足りる事項、公訴事実、罪名を記載しなければならない。」ことになつているが、特に公訴事実については、訴因を明示してこれを記載し、「訴因を明示するには、できるかぎり日時、場所及び方法をもつて罪となるべき事実を特定してしなければならない。」とされている(法二五六条参照)。これは、現行刑訴が旧刑訴よりも一層厳格に審判の対象を明確にし、被告人の防禦権の行使に遺憾のないように配慮したためである。
かように右の手続は、刑訴法運用の基本となるものであるから、これをゆるがせにしては、その後の手続を同法の理想にしたがつて適正に進めることは、きわめて困難である。だからこそ、この手続に重大な瑕疵があるときは、判決で公訴を棄却しなければならないものとされていたのである。
公訴事実は、訴因によつて表示され、両者は表裏一体の関係にあるが、両者の各同一性を論ずるについては、公訴事実は、訴因の基礎にある社会的事実として訴因よりも幅広いもの、訴因は、この事実に厳密な法律的構成をほどこしたものとしており、狭あいなものと認められる。したがつて、訴因については、その狭あいさにともなう弊を救うため、公訴事実の同一性を害しない限度において、起訴状における予備的もしくは択一的記載または同一訴訟手続での追加、撤回もしくは変更が許されるが、公訴事実については、かような必要がないものとして、起訴状における予備的もしくは択一的記載、同一訴訟手続における変更等は許されないものとされている(法三一二条)。これらの点からみると、公訴事実の特定および同一性は絶対的なもの、いわば、訴訟の発端からその終結に至るまで不変不動のもので、訴因におけるような柔軟性は、全く認められない。このため、現行刑訴のもとにおいても、訴因ではなく公訴事実が、二重起訴の成否および確定判決の効力の及ぶ範囲(いわゆる既判力)を判断する基準とされているのである。公訴事実の特定についてさえ疑問を生ずるようでは、公訴提起の効力がないことは明白である。本件について、これから論じようとするのは、右の意味の公訴事実が特定しているかどうかである。
(三) 公訴事実の特定と本件犯行の特殊性との関係
本件は、日本人が有効な旅券に出国の証印を受けないで、本邦外の地域におもむく意図をもつて出国することを内容とする犯罪である。
本件において有効な旅券に出国の証印を受けないことは、一見罪となるべき事実を特定する方法のようにみえるが、決してそうではない。これも罪となるべき事実そのものに属する。したがつて、罪となるべき事実をできるかぎり日時、場所及び方法をもつて特定すべきであるとする法本来の趣旨によると、本件は、つぎのように記載するのが妥当であろう。(実際にも、他の犯罪については、ほぼこのような記載方法がとられている。)
「被告人は、日本人であるが昭和二十九年五月頃ソヴエートロシヤにおもむく意図をもつて、くしろ港から、有効な旅券に出国の証印を受けないで、栄丸という貨物船に便乗して出国したものである。」
ところが、本件各起訴状をみると、出国の時期が短いものでも一年以上、長いものでは六年以上の期間で指示されているほか、出国の場所も方法も、なんら具体的に示されていない。つまり出国の時期がきわめて漠然と示されているだけで、あとは罪となるべき事実が法文の字句そのまま記載されているにすぎない。それでは、何年何月から何年何月までの間に出入国管理令第六十条第二項違反の罪を犯したものであるというに等しい。右の時期は、本件では六年程度にとどまつているが、この期間は今後は十年にも十五年にも延長されるおそれがある。(この点は後述。)こうなつては、特定とは結局名ばかりのものであるといつても過言ではない。窃盗、強盗、殺人、放火等普通の犯罪については、こんな特定方法は想像もされないことで、これでは、被告人が適切な防禦の対策を講ずること、裁判所が適正な審理をすることは不可能である。したがつて、普通の犯罪については、公訴事実が特定されないものとして公訴を棄却するほかはない。これが法律家の常識である。ところが、本件では、法律家の常識で考えられないような異例な方法がとられているのである。(このような起訴は訴因などという概念のなかつた旧刑訴のもとでも、みられなかつたことである。)本件においては、被告人側の防禦も、審判の適正も、考慮する必要がないというのであろうか。それほど本件には特殊な事情があるのであろうか。右のようなあいまいきわまる公訴の提起を有効とするためには、それを肯定するに足りる合理的な根拠、いわば他の犯罪にみられないような異例な事情が認められなければならない。そこでこの点を判断するため、つぎに本件犯行が法律的にどういう性質のものであるか、本件犯行が実質的に他の犯罪とどんな点で異なつているか等を慎重に検討してみたいと思う。
(1) 本件犯行の法律的性質
犯罪には、即時犯と継続犯とがある。前者は、一定の法益侵害または危殆の結果が発生することによつて、犯罪が完成し、同時に終了するものをいう。これに対し、後者は犯罪が既遂に達した後もその法益侵害の状態が継続している間犯罪は継続すると認められるものをいう。後者に属するのは、不退去罪(刑法一三〇条)、監禁罪(同二二〇条)、不解散罪(同一〇七条)等少数の特殊な犯罪だけで、これらを除く一般の犯罪は、すべて前者に属する。
即時犯においては、犯行の着手と完成の各時点が問題になるが、着手と完成との間に時間的へだたりのあることは稀れなので、通常は、犯行の時期として特定の日時を示せばよく、例外的に、犯行の着手と完成の各日時を明らかにする必要があるにすぎない。いずれにしても、ここで示す必要があるのは、特定の時点であつて、特定の期間ではない。これに反し、継続犯が成立するためには、ある程度の時間的幅が必要とされるので、この犯行の時期を示すには、必ず一定の期間をもつてしなければならない。ここに即時犯と継続犯との根本的差異がある。
本件が即時犯に属することは、疑いない。なぜなら本件は、出国、すなわち、わが国の領海または領空の外に出ると同時に既遂になり、それで犯行は終るからである。本件の場合、出国の結果外国にいることは、違法な状態といえるが、なんら犯罪を構成するものでない。それは、窃盗や強盗が財物の奪取と同時に既遂になり、それ以後その財物を所持していることが、他の罪にならないのと同様である。したがつて、本件において問題になるのは、「いつからいつまで出国していたか」ではなく、「いつ出国したか」である。たとい「いつからいつまでの間に出国した」と記載されている場合でも、それは、その期間内の特定の一時点に出国したという意味である。いわば、本件においては、特定の一時点を指示するのに、短いものでは一年以上、長いものでは六年以上という、ほとんど無限の時点を包容しうる長期間が用いられているのである。要するに、法律的にみるかぎり、本件は、窃盗、強盗、殺人、傷害等一般の犯罪となんら異ならないのであつて、前記のような漠然とした特定方法を許す根拠は、全くないといえるのである。本件に特殊性があるとするならば、それは実質的特殊性以外のものではないはずである。
(2) 本件犯行の実質的特殊性
これまでの判決例が、幅広い期間で出国の時期を示し、これだけで公訴事実を特定しうるものと解した背後には、つぎのような考えがひそんでいたように思われる。「被告人はいつ、どこから、どういう方法で出国したかはわからないが、被告人が指定された期間内に出国したことは間違いなさそうである。そのことは、起訴状をみただけでも想像がつく。この種の犯行は、普通の犯罪と異なり短期間に反覆することは困難である。検察官も、好んで漠然とした方法で公訴事実を特定したわけではあるまい。きつと事案の性質上やむにやまれぬ事情があつたのであろう。幅広い期間で出国の時期を指定するとしても、被告人がその間に二回以上出国したと主張し、あるいは立証しないかぎり、別にそのことを問題にする必要はない。被告人がいつ出国したかは、被告人自身反省すればわかることである。被告人は、防禦しようと思えば防禦できるはずであるから、実質的に被告人の利益を害するおそれはない。二重起訴、既判力、公訴の時効、累犯の問題等も、何とか解決がつく。起訴の方法に多少問題はあるとしても、被告人が結局罪を犯したことは間違いなさそうだから、法の形式にとらわれて公訴を棄却するのは妥当でない。このようなことをしては、法の威信は失われ、国家の秩序は乱れ、まぬかれて恥じない徒を喜ばすだけである。裁判官は、法の形式にとらわれて、法の目的を忘れてはならない。訴訟法もまた正義の実現に奉仕するものである。」
右の考え方には、一応筋がとおつているようにみえる。むしろ誰でも、なるほどと思いそうである。
同種の事件について数年前、四ヶ月あるいは五ヶ月という比較的短い期間で出国の時期を指定した公訴が初めて提起されたときは、裁判官は、右の公訴提起を有効とすべきかどうかについて相当悩んだに違いない。なぜならこの程度のことさえ他の犯罪については、ほとんど例のなかつたことであるからである。しかし、思い悩んだ末前記のような考え方に到達し、この考え方のもとに有効説に踏みきつたあとは、期間の長短は、それほど気にされなかつたと思われる。右のような考え方のもとに有効とする以上は、この期間に制限を設けることは理論的に不可能で、十年でも十五年でも差支えないといわざるをえないであろう。現に、六年以上の期間で出国の時期を指定した公訴を有効とする高裁の判決があらわれ、更に最近では、七年以上の長期間で出国の時期を指定した公訴の提起さえ行われているのである。(この事件は、別件として当部に係属。)それはとにかく、前記の考え方には、きわめて常識的な面がある。したがつて、法律を知らない、素朴な正義感に燃える人達に対しては、一層強い説得力をもつであろう。しかし、これらの人達も、公訴棄却の判決が無罪の判決と全く異なるものであること、すなわち、もう一度筋をとおして起訴する途が残されており、出国の時期をもつとはつきりさせて起訴すれば、適法に公訴が受理され、有罪にされうること、つまりもう少し捜査し、もう少し工夫するならば、もつと出国の時期を特定して起訴する方法があるはずであること、たといかような方法が困難であろうとも、それは法の要請する公正な態度であり、権力を与えられ、これを行使する者は、この種の困難を克服してその使命を達成すべきものであること、罪を犯した者を処罰することだけが正義の要求でなく、正しい手続に従つて処罰することも正義の要求であること、どんな人でも、どんな機会にどんな嫌疑をうけるかわからないこと、そしてそのために犯人として起訴されることもありうること、自分や自分の家族だけが例外であると考えるのは誤りであること、だからこそ、訴訟法には、万一にも人権を害することがないように種々の規定が設けられていること、公訴事実の特定ということは、不充分な捜査で起訴することを困難にするとともに、起訴された者がそれに対し充分な弁明をし、適切な防禦の対策を講ずることができるように、特に明確さが要求されていること、このことは、適正迅速な裁判をするための基礎となることで、ささいな形式問題として片づけることができないこと、明確な理論的根拠もなく本件においてルーズな取扱いを許すこと、すなわち安易に法の基本原則を無視して例外を認めることは、おそかれ早かれ、また多かれ少なかれ、他の犯罪にも波及するおそれがあること、これがどれほど重大な結果を招くかは指摘するまでもないこと、実質的に弊害がないなどということも、狭い観点から目先の利害だけにとらわれて判断するのは危険であること等を知るならば、必ずや首をかしげるに違いない。本件公訴を有効とする前記の考え方と、これを問題にするあとの見解とは、一見、非常識な手続による常識的結論の確保と常識的な手続による非常識な結論への到達との対立のようにみえる。しかし、われわれは、あとの見解を発展させ、常識的手続による常識的結論に到達しようと意図するにすぎないのである。(ここで法律の素人まで引きあいに出してわかりきつたことを今更らしく指摘したのは、ほかでもない。専門家は、往々特定の事件の合目的解決にとららわれるあまり、かえつて当然なことを看過することがあるからである。)
そこで、つぎに本件公訴の提起を有効とする前記の考え方に明確な理論的根拠があるかどうかを検討してみよう。この考え方を支えているのは、結局つぎの諸点、すなわち、(イ)外国からの帰国が立証されるだけで、それに先だつ外国への出国が推認されるという点、(ロ)被告人が黙秘し、あるいは反証を提出しないという点、(ハ)事実の性質上捜査が非常に困難であるという点、(ニ)本件のような犯行は短期間にくり返して行いがたいという点、(ホ)最後の出国を起訴する意思であると釈明することによつて、公訴事実が特定されるという点、(ヘ)二重起訴、既判力等の法律問題も、どうにか解決がつくという点等である。これらの点をほりさげ検討することによつて、本件犯行にともなう実質的特殊性の有無が明らかにされ、本件公訴を有効と認めるべきかどうかも、おのずから解決されると思われる。
(イ) 外国からの帰国が立証されることによつて外国への出国が推認されるという点。
外国から帰つてきた以上外国に行つていたに違いないということは、われわれの常識であり、経験則上決定的に推認されることである。これが本件犯行自体の特色といえるかどうか、また本件だけに関連してみられる徴表であるかどうかは問題であるが、すくなくとも、それが本件犯行にともなう特異な現象であることは疑いない。しかし、ここで注意しなければならないことは、右の推認は、証拠調の過程において初めて重要な意義をもつということである。裁判所としては、被告人が果して帰国したかどうかさえ、証拠調をしたうえでなければ確認できないことである。(起訴状にてん付されている新聞紙の記事によつて、被告人の帰国を証明することができないことはいうまでもない。これは、起訴された犯罪が公訴の時効にかかつていないこと、ただそれだけを疎明する資料にすぎない。)いわんや、被告人が出国したかどうか、その出国が罪になるかどうかは裁判所には全然わからないはずである。だからこそ、法にしたがつて審理し、裁判する必要があるのである。こんなことをいうと、いかにも形式論をもてあそんでいるようにみえるかもしれない。しかし、決してそうではない。むしろこれらのことは、理論上当然なこととして承認されており、普通の犯罪については、実際上も厳格に守られ、行われているのである。
起訴状一本主義の建前からいつても、本来裁判所は、被告人の行為は罪になりそうだなどという予断をもつてはならないのである。本件の場合も例外ではない。本件の場合を例外とするためには、例外とする明確な根拠を要する。帰国したという決定的証拠があるという想像のもとに、右のような予断をもち、これを基礎にして起訴状の記載について寛大な態度をとることが、許されるならば、他の犯罪についても同様なことが承認されなければならない。なぜなら他の犯罪についても、公訴事実の記載をあいまいにしておいて、決定的証拠があると釈明し、寛大な処置を求める余地があるからである。起訴状の記載は、単に検察官の主張を表明するものであるにすぎない。ここでの問題は、
まさにこの主張の当否、すなわち、検察官の主張が法の要求する程度の具体性、明確性をそなえているかどうかなのである。
これを解決するにあたつて、前記のような予断をもち、この難点から逆に、起訴状の記載をあいまいにしてよいとするのは、明らかにあやまりである。本件を論ずるについて、かようなあやまりをおかしている弊は全くないといえるであろうか。
たとえば、「罪を犯したことが明らかな者について法の形式にとらわれて公訴棄却などするのは適当でない。」とか、「公訴棄却しても、再起訴されれば有罪にするほかないのだから、形式的なことを強調するのは意味がない。」という考え、端的にいうと、予断どころか、「被告人は有罪である。」ということを前提にした議論が、意識的あるいは無意識に、本問の解決を紛糾させている嫌いはないであろうか。まず指摘したいのはこの点である。
(ロ) 被告人が黙秘し、または反証を提出しないという点。
右に説いたことによつて、被告人が黙秘し、または反証を提出しないことを、公訴事実の記載があいまいでよいとする論拠にできないことも、ほぼ明らかになつたと思われるが、この点は重要なことなので、今すこしほりさげて検討してみたいと思う。
被告人は、公判においては、公訴事実を認めることも、否認することも、それに対して黙秘することも、全く自由である。
道義的には、「否認するのはよくない。」とか、「黙秘するのは、ひきようである。」とかいえるかも知れないが、法律的には、こんなことをいう余地はない。被告人が、どういう思想、どういう経歴の持ち主であろうと、また、どんな態度に出ようと、ただ法の定めるところに従い、厳正公平に手続を進めるのが裁判所の義務である。
多少事情は異なるが、右のことは、基本的には、捜査手続にも妥当する。公訴事実が特定しているかどうかは、被告人の陳述をきく前の問題である。むしろ公訴事実が明確にされていてこそ、これに対して被告人に陳述の機会を与える意味があるのである。本件のように出国の時期が幅広い期間で指定されている事案について、被告人が黙秘し、「二回以上出国した」といわないから、その期間に二回以上出国した疑いはなく、公訴事実が特定しているなどといえないことは明らかである。これを肯定することは、論理的に疑問があるばかりでなく、それでは、公訴事実の特定ということを、被告人の陳述という偶然的な事情にかからせる結果になつてしまう。
また公訴事実の特定は、証拠調以前の問題である。公訴事実は、実質的審理、すなわち、証拠調に入る前に特定していなければならない。いわば、公訴事実の特定は、証拠調の開始および続行の要件なのである。(実務上便宜的に証拠調に入ることもないとはいえない。しかし、これは決して本来の姿ではない。)
したがつて、「証拠調の結果その期間内に一時帰国したとは認められない。」とか、「二回以上の出国を疑わせるような証拠がない。」とかいうことを公訴事実特定の論拠とすることができないことは明らかである。要するに、被告人が黙秘し、または反証を提出しないこともまた、帰国による出国の推認と同様、理論的には、公訴事実の特定について、すこしもかかわりのないことといえるのである。
(ハ) 事案の性質上捜査が非常に困難であるという点。
この種事件の捜査がきわめて困難であることは、想像にかたくない。日本全国どこからでも夜陰に乗じて出国することができる、しかも、事前にこれを探知することは不可能に近い、事件直後にこれを知ることさえ容易ではない、目撃証人等直接証拠が、あることは稀れである。この種事件の犯人は、捜査官に対し黙秘戦術に出るのが普通である等、実際捜査官の苦労は並大抵ではないであろう。われわれも、個人的には、捜査官の立場に対し、同情を禁じえない。しかし、裁判官としては、かような個人的感情に動かされないのが職業上の義務である。捜査が困難なのは、なにもこの種事件にかぎらない。この種事件は、単に一般的に捜査が困難であるというにすぎない。すべての捜査困難な事件について、その困難の度合いに応じ適宜公訴事実の記載の明確性をゆるめてよいというのであるならば、一応筋のとおつた理論であるといえる。しかし、それにも限度があるはずである。なぜなら無制限にこれを許すならば、公訴事実の特定について厳重な規定を設けた法の趣旨は、全く没却されてしまうからである。では、公訴事実の特定について最小限度要請されることは、なにか。
公訴事実が特定しているというためには、起訴状の記載自体によつて、その事実の独自性、すなわち、歴史的一回性が明らかにされていなければならない。なぜならこれさえ明らかにされないようでは、起訴状によつて審判を求める事実の範囲そのものがあいまいになつてしまうからである。(検察官の釈明によつて起訴状の記載を明確にすることは許される。しかしこれは、あくまで補充的なものである。起訴状の記載に存する致命的欠陥を釈明によつて、救済することはできない。ここに釈明の限界がある。起訴状の訂正についても、同様のことがいえる。)したがつて、起訴状にかかげる公訴事実を一個であつて二個以上でないと主張する場合には、その事実が社会通念上二個以上の独立の事実をふくみ、またはこの両事実に関連しているとみる余地のないこと、すなわち、別に存在すると観念される同種の事実から、社会常識的にはつきり区別されうる程度に具体化されることが必要である。この見地からすると、本件各起訴状のように公訴事実を期間とよぶべき幅広い日時だけで特定している場合において、その間に同種の行為が二回以上行われたかも知れないという合理的疑いを生ずるときは、公訴事実が特定しているとはいえない。要するに、公訴事実が一個か二個かさえ問題になる起訴は、被告人の防禦を著しく困難にするおそれがあるばかりでなく、かような起訴の効力を認めると、訴訟法上種々の矛盾や不合理をきたさざるをえないのである。(訴因制度が採用されている法の趣旨からみると、前述のとおり、起訴状の記載は、もつと具体的で明確でなければならないと思われるが、短期間に反覆することが困難であること等本件事案の特殊性にかんがみ、ここでは、文字どおり最小限度の必要性を論じたのである。)
このことは、例をあげて説明する方がわかりやすいであろう。
(a) 昭和二十七年五月頃長崎港から漁船で中共に向け出国したという事実と、昭和三十三年二月頃羽田空港から飛行機でフランスに向け出国したという事実とを想定せよ。たとい出国の主体が同一人の場合でも、この二つの事実は、全く別個独立の事実とみるべきで、その間に同一性を認めることはできない。すくなくとも、これが、法律家の常識である。したがつて、最初の事実で起訴し、これが無罪になりそうだからといつて、第二の事実に訴因を変更することは許されない。この場合には、第二の事実を新たに起訴するほかはない。右の理は、被告人が昭和三十四年二月頃外国から帰国し、いつ、どこから、どういう方法で出国したかわからないが、結局出入国管理令違反の罪を犯したと認められそうな状況のもとにおいても、すこしも変らない。ところが、六年余という幅広い期間で出国の時期を特定しうるものとし、しかも出国の場所および方法をなんら具体的に示す必要がないとするならば、その公訴事実の中には、右の二つの事実が立派に包容されてしまうのである。もしかような二つの別個独立の事実を包容しうる漠然とした記載で公訴事実を特定しうるとするならば、前記の場合にも、訴因の変更を許さなければならない。しかし、これを許すことは、当然別個独立のものとみるべき両出国行為の間に同一性を認めることであつて、明らかに法常識に反する。
(b) また昭和二十八年九月頃鹿児島港から漁船で出国したとして起訴された事案につき、目撃証人等を取り調べた結果人違いの疑いがこいとしてその事実が認定困難な場合を想定せよ。この場合には、無罪を言い渡すほかはない。たとい昭和三十三年三月頃帰国したこと、管理令施行後である昭和二十七年三月頃被告人が国内にいたことを立証できたとしても、そうである。なぜなら裁判所は、検察官の主張した事実について審判する権利と義務とを有するだけで、この事実をこえて審判する権利も義務もないからである。この場合には、出国の時期を昭和二十七年三月頃から昭和三十三年三月頃までと変更することはもちろん、昭和二十八年九月頃から昭和三十三年三月頃までと変更することを許されないと解する。なぜならそれは、とうてい同一公訴事実の範囲内での訴因の変更とはみられないからである。これを承認するためには、かような場合にだけあてはまる特別な理論を案出しなければならない。ところが六年というような幅広い期間で出国の時期を指定しうるものとすると、前記の場合にも無罪を言い渡すことは困難になり、後記の出国時期の変更をも許さなければならなくなるおそれがある。
右にあげた二つの例によつて、五年とか六年とかいう幅広い期間だけで出国の時期を指定し、出国の場所や方法を具体的に示さない場合に、なお公訴事実が特定しているということがどんなに不合理な結果にみちびくかは明らかになつたと思われる。しかし、出国の時期をそれほど幅広い期間で指定した場合でなくても、その間に二回以上出国したかも知れないという合理的疑いが存するときは、やはり同様の問題を生じ、同様の結論になると考える。では、出国の時期を指定する期間の幅は、どの限度まで適法といえるか。これに明確な限界をかくすることは困難であるが、すくなくとも、本件のように、一年以上の期間で出国の時期を指定し、しかも出国の場所や方法をなんら具体的に明らかにしていない場合には、二回以上出国したかも知れないという合理的疑いを生ずるものとし、公訴を不適法とすべきである。
(ニ) 本件のような犯行は、短期間にくり返して行いがたいという点。
本件を二回以上くりかえすためには、二回以上出国するだけでなく、二回以上帰国しなければならない。外国との間を往来するには、そのための準備期間をもふくめて相当の日時を要する。しかも、看視の眼をくぐつての往来には、種々の困難がともなう。本件を短期間にくりかえして行いがたいことは明らかである。しかし、この点を強調するあまり、出国の時期をどんな長い期間で指定してもよいというのは、ゆきすぎである。どれ位の期間で反覆できるかは、結局水かけ論になつてしまう。北海道の北端からソヴエート領まで、九州北端から韓国までは、船で行つても、それほど時間はかからない。取締りが厳重であるといつても、密出入国者がすくなくない現状では、看視の眼をくぐることがそれほど困難であるとは思われない。
本件は、先に論じたとおり即時犯であつて、大切なのは、出国の時点なのであるから、本来ならば、何年何月何日頃、それができないならば、せめて何年何月頃出国したと表示すべきである。反覆が困難であろうがなかろうが、この理はかわらない。単に本件においては、出国をくりかえすことが、社会通念上非常に困難とみられる程度の短期間で出国の時期を指定しても事実の同一性について疑問を生ずることはない、したがつて、この限度までは公訴事実の記載をゆるやかにしてよい場合があると解されるにすぎない。この観点からすると、一年以上の期間で出国の時期を指定しただけで、出国の場所や方法をなんら具体的に明らかにしていない本件各公訴事実が特定しているということは、やはり困難である。
(ホ) 最後の出国を起訴する意思であると釈明することによつて、公訴事実が特定されるという点。
出国の時期を幅広い期間で指定し、その間に二回以上出国の蓋然性がある場合でも、釈明あるいは起訴状の補正によつて、そのうちの最後の出国、すなわち、帰国の原因となつた出国を起訴する意思である旨明らかにすればよいではないか、それで公訴事実も特定されるのでないかという考え方がある。この考え方が理論的に正当であると認められるならば、本件各公訴事実は、不完全ではあるが、特定していないとまでいえないように思われる。
右の意味で、この点は、法理的に、他の論点とはくらべものにならないような重要性をもつている。そこでやや詳細に論じてみたい。
まずこの考え方によつて問題を解決しようとするならば、本件のように帰国の日時が起訴状に示されていない場合には、釈明あるいは起訴状の補正によつて、帰国の日時を明確にし、この原因となつた出国を起訴する意思である旨を明らかにしなければならない。(検察官は、裁判長の釈明要求に対して起訴状の記載で充分であると思つたためか、右の考え方に疑問をもつたためか、なんら右のような処置をとろうとしなかつた。)同種事件についての判決例の中には、意識的あるいは無意識的に、同様の考え方を前提にしているものがすくなくないように思われるが、右のことを明確にしているものは、ほとんどない。これでは問題にならないと思われる。では、釈明あるいは起訴状の補正によつてその点を明確にした場合はどうか。一応特定するようにみえるが、やはりつぎのような疑問があり、とうてい容認できない。
(Ⅰ) 右の特定方法は、きわめて観念的であつて、なんらの具体性をもたない。そこには、外部から認識しうるような客観性は、いささかもない。したがつてまた、これによつて幅広い期間が実質的に短縮される等、公訴事実が一層具体化されることにはならない。
(Ⅱ) 本件公訴事実は、出国したという事実であつて帰国したという事実ではない。二つは、全く別な事実である。したがつて、後者をいくら特定しても、それによつて直ちに前者が特定されることはない。本来公訴事実は、それ自体を日時、場所、方法等によつて特定すべきものであつて(法二五六参照)、全く別の事実を採用することによつて間接的に特定することは許されないものである。しかも本件においては、その間接的方法さえ、きわめて観念的である。かような特定方法は、訴訟法で許される限度をこえたものである。
(Ⅲ) 以上に説いたとおり、前記の特定方法は、きわめて観念的で、客観性に乏しいが、全然無意味であるとはいえない。なぜなら、それによつて、最後の出国一回だけを起訴した意思であることは、とにかく判明するからである。ただ、これについては場合をわけて考えてみる必要がある。
(a) 「出国は二回以上かも知れないが、そのうちの最後の一回だけを起訴する意思である。」と主張する場合。この主張は、法律的にみると、「二回以上出国したとするならば、最後の出国を起訴すの意思である。」という主張、いわば、一種の仮定的主張である。訴因については、公訴事実の同一性を害しない限度において、予備的または択一的記載が、許されるが、公訴事実については、かようなことを考える余地はない。二回以上出国した場合には、各出国は、それぞれ別個の公訴事実を構成する。これらの点は、なにびとも異論のないところであろう。そうだとすると、公訴事実の予備的または択一的記載が許されない法のもとにおいて、それ以上はるかにあいまいな右の主張が許されないことは明らかである。
(b) 「出国が二回以上などとは考えもしないし、認めもしない。しかし、起訴状の記載自体によると、二回以上の出国の蓋然性がないとはいえないので、最後の出国を起訴する意思である旨を明らかにしたい。」と釈明する場合。この釈明には、(a)のような問題はない。しかし、依然として(Ⅰ)および(Ⅱ)で指摘した疑問をまぬかれることはできない。もう一度わかりやすく説明してみよう。最後の出国とは、結局帰国の原因となつた出国を意味するが、かような特定に意味があると考えられるのは、その出国になんらかの客観的特色があり、この特色によつて他の出国(すなわち、帰国の原因とならない出国)からはつきり区別される場合だけである。ところが、右のような観念的特定方法では、一定期間内の出国であるかぎりは、いつどういう目的で、どこの国に向け、どこから、どういう方法で出国しようが、すべて帰国の原因とみられうるのである。これでは、その期間内のどの出国についても、それを最後の出国であると主張し、立証し、認定する余地がある。そのことは裏返していうと一層はつきりする。たとえば、判決確定後被告人がその期間内のある特定の時期に出国したことが判明した場合、出国の時期が判明しただけでは、―その時期が帰国直前である場合は別とし、―それが最後の出国であるという保障はどこにもない。それを最後の出国であると確認するためには、そのことを確認するに足りる他の事情が明らかにされなければならない。
要するに、右のようなあいまいきわまる方法で特定することは、なんら特定にならないのであつて、およそ法の予想しないところというべきである。
かりに右のような特異の方法で公訴事実が特定されたものと解し、これについて有罪の断が下され、この判決が確定したが、判決確定後その期間内に二度出国したことが判明したと想定せよ。この場合には、更につぎの問題が生ずる。たとえば、前の出国は、公訴の時効にかかつていないかぎり、これを再起訴することができる。そして裁判所は、その事実について証拠があれば、有罪の判決をし、別に刑を科さなければならない。なぜなら起訴され、かつ、有罪の判決があつたのは、最後の出国だけであつたはずであるから。本件のような場合には、再起訴されても必ず免訴されることになるから、被告人の不利益になることはないなどという者があるがかようなことをいうためには、確定判決の効力の及ぶ範囲(いわゆる既判力)について大審院以来確立されてきた判例の立場を根本的に変更しなければならない。(本問の場合、各出国の時期またはその一方の出国の時期が判明しないときは、その取扱いについて複雑きわまる法律問題を生じ、疑問続出するが、はんさに流れるので省略する。)判例の立場を変更することも結構である。しかし、本件のような疑問の多い起訴を有効とするために、判例を変更するというのでは本末てんとうである。
(ヘ) 二重起訴、既判力等の法律問題もどうにか解決がつくという点。
本件公訴の提起を有効とすると、これらの法律問題についても、種々の疑問を生ずる。この点は、一々指摘する煩にたえないので、簡単に示唆するにとどめたい。
二重起訴が禁止される範囲あるいは確定判決の効力(既判力)の及ぶ範囲が公訴事実の同一性の認められる限度にとどまること、各出国が、別個の公訴事実を構成し、その間に同一性を認めることができないこと等普通の理論を前提にすると、二度以上の出国があつた場合における二重起訴の成否および確定判決の効力の及ぶ範囲について明快な理論的解決をくだすことは容易でない。幅広い期間で出国の時期を指定しても、その間の被告人の出国行為については、すべて再起訴することはできず、起訴しても免訴されることになるから、かえつて被告人に有利であるという議論があるが、この論は、ただの常識論あるいは希望論としてなら格別、法理論としては、簡単になりたたない。そのことは説明するまでもなく、すこしく問題をほりさげ分析するならば直ちに判明するであろう。(なお公訴の時効や累犯加重の問題等を判断するについても、若干の疑問は残る。)
論者のいうとおり、これらの疑問は、どうにか解決がつくかも知れない。しかし、そのためには、普通の場合と異なる独特の理論を構成したり、無理な説明をしなければならない。(その一例として(三)(2)(ホ)の末尾の説明参照。)そこに、むしろ問題があるといえる。
もつとも純理論的には、たとい短い期間で出国の時期を指定しても同様の疑問をまぬがれない。
しかし、短い期間で出国の時期を指定した場合には、その間に二度以上の出国の蓋然性がないといえるから、実際的法理論としては、二度以上出国したことなど想定して論ずる必要はない。
本来訴訟法上の理論は、稀有の例外的事例を基礎に、普通の事例の合理的解決に支障を来たすような非実際的な姿で構成されるべきでなく、通常起りうべき事態を基礎に、これを合理的に解決しうるような実際的な形で構成されるべきである。(稀有な事例に対しては、できるだけ基本的解釈にそうように配慮しつつ、卒直に例外であることを認め、例外的解釈をうちたてるべきである。)
公訴事実の特定を論ずるについて二度以上の出国の可能性でなく、蓋然性を問題にしたのは、このためである。右の観点からすると、万一短い期間内に二度出国したことが判明したとき(事実には想像をこえるものがある。ただこの種のことは、普通の犯罪について普通の方法で起訴されたときでも、絶対に起りえないとはいえないことである。)は、別に具体的解決策を講ずるほかはない。これに反し、本件のような特定方法では、二度以上の出国の蓋然性がないといえないのであるから、右の特定方法の是非を論ずるについては、あらかじめ二度以上の出国があつた場合を想定し、この際に起るすべての法律問題を合理的に(すなわち、普通の場合とあまり異ならない無理のない理論で、)解決することができるかどうかを検討する必要がある。
(四) 結論。
裁判がただ理論、特に抽象的理論に従つてされるべきでないこと、裁判にあたつて実際的観点が重視されなければならないことは、いうまでもない。しかし、実際的ということも、目先の便宜だけにとらわれて判断するのは危険である。また訴訟法については、その手続法としての性格から、特に合目的な観点が強調される。
この意味で、その運用については、徒らに字句の末にとられわることなく、その精神を生かすように工夫することが大切である。しかし、基本的人権の保障に関連する重大な法規の解釈運用については、個々の場合の妥当性を求めるほか、相当高度の客観性および安定性を確保する必要がある。
天才以外には期待されないような大岡裁判を許さないとするのが近代訴訟法の精神である。常識的にいつても、基本的なことがゆるがせにされるならば、合目的に進めるべき手続の基礎自体が動揺し、これを活溌に能率的に運用することは、できなくなるであろう。公訴事実の特定は、まさにこの基本的なことに属する。したがつて、この解決については、目先だけの便宜にとらわれない、しかし実際的な配慮と、できるだけ高度の客観性および安定性を確保しようとする努力とが必要である。本件犯行について二回以上の出国の蓋然性のない公訴を有効と認め、この蓋然性のある公訴を無効と認めたのは、右の観点からである。これこそ、この種事件について、公訴事実が特定しているかどうかを定めうる唯一の合理的基準であると信ずる。
当裁判所は、本件各公訴の提起については、右の基準に照しても、また他の観点から考えても、それを有効とする明確な論拠を見いだすことができない。思うに問題は、明確な理論的根拠もなく、かようなルーズな方法で起訴し、あるいはこれを適法として受理する態度そのものの中にある。ここに将来への危険が感ぜられるのである。万一にも関係者がなんらかの政策的考慮に動かされて多少の無理はやむをえないと考えたり、どうせ刑は軽るいし有罪でも執行猶予になるのだからという安易な気持に流れたりすると大変である。こんな考えや気持が知らず知らずのうちに、思いがけない結果に発展することがないとはいえないのである。
かりに本件のような犯罪を、なんとかして例外なく処罰するのが、動かしがたい正義の要求であるとしても、いやしくも人の処罰を求める以上は、憲法および刑訴法の精神に反するおそれのない方法で筋をとおしてすべきである。それが権力を行使する者の最小限度の義務であり、これまた正義の要求するところである。本件のような犯罪についても筋をとおして起訴することはそれほど困難であると思われない。しかし、この点は裁判所の関するところでないので割愛する。
以上詳細に説明したところによつて、本件各公訴は、公訴提起の手続がその規定に違反したため無効である場合と認められるので、刑事訴訟法第三百三十八条第四号に則り、棄却することとする。
そこで、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 横川敏雄 裁判官 中川文彦 裁判官 緒方誠哉)
<以下省略>